「知的な生物」

ある国の執務室。
その部屋に座る男は、部下が完成させた書類を熱心に読んでいた。
そして、最後の一字を目に収めると、満足そうに息を吐いた。
「うむ、これでいい。これであの国も捕鯨などと言う野蛮な行為をやめるだろう」
そう呟いた時に、秘書が来客を告げた。
通すように命じ、しばらくすると、青ざめた表情で客が入ってきた。
儀礼的な会話を礼儀正しく交わし終えると、客は怖々と口を開いた。
「ところで、本日はどのようなご用でしょうか」
「これを受け取って頂くために、お越し願いました」
男から書類を受け取った客は書類の表題を見て驚きの表情を浮かべた。
慌てて文字を拾っていくうちに、客の顔はさらに青ざめていった。
「こ、これはいったい……」
「読んでの通りです。あなたの国が捕鯨をやめない場合に、我が国がどのようなペナルティを科すか、という警告です」
「そんな、あんまりです。そもそも、捕鯨というのは我が国古来の文化なのですよ」
「その文化というものに固執するのが間違いなのです。あなただって、人を食う習慣を持つ国があったら、野蛮だからやめろと叫ぶでしょう」
「いま問題にしているのは鯨です。そもそも、人間というものは他の生命を犠牲にして生きるものでしょう。生態系ということもあります。どうして鯨だけを例外にしなければならないのですか」
「彼らは賢い。あの知的な生物を殺すなどということがいかに野蛮な行為であるのかおわかりにならないのですか」
「そんな、無茶な事を言わないでください。だいたい、鯨の知性がどの程度かを計ったことなどできないでしょう」
「鯨がいかに賢いかは、あの瞳を見ればわかります。とにかくこれは最後通 告です。あなたの国が賢明な国であることを祈っています」
男の強い口調に、客は引き下がるしかなかった。

数日後、再びあの客が訪れた。
儀礼的な会話の後に、客は疲れたように口を開いた。
「先日のお話ですが、本国に問い合わせたところ、ご忠告に感謝し、貴国の意見に全面 的に従う、ということになりました。もちろん、一般への発表はまだですが……」
「そうですか、それは素晴らしい結論を出されました。我々もねばり強く善意溢れる行動をした甲斐があったというものです」
喜ぶ男に対して、客は視線を沈めたまま言葉を続けた。
「そこで、一つお願いがあります。我々は世界に冠たる捕鯨国でした。それが突如方針を変更したとなれば、いままでの仲間から多大な非難を受けます。そこで、先にあなたの国で我々を説き伏せたという声明を発表していただけないでしょうか」
「おやすいご用です。捕鯨反対国としての我が国の主導的地位 も確固たるものになります。喜んでお受けいたしましょう」
「では、よろしくお願いします」
客はそう言い残し、ふらつく足取りで帰っていった。
男の国はただちにあの客の国の捕鯨方針を転回させることに成功した、と発表し、続いて、客の国がそれを認める声明を出し、捕鯨の即時停止を発表した。
国民は熱狂し、歓喜の声をあげた。
これこそが正義、これこそが文明。
われわれの善意は、世界をさらに一歩よりよい未来へと進めたのだ。
その中で、いままでの捕鯨方針を転換したその国は前非を悔い、積極的な鯨保護政策に乗り出した。
鯨の子供の保護に、専用の薬の開発。さらに、鯨を守る役所まで設立した。全ては男の国が望む方向へと向かった。

時代がそう流れる中、客がまた訪れた。
儀礼以上の会話を終えた後、客は男に一つの提案を行った。
「我々の迷妄を解いてくれたあなたの国へ、感謝のしるしとして、鯨をプレゼントさせていただけないでしょうか。小さいときから訓練し、人と遊ぶことができるまで慣らしたものです。鯨を世界で最も愛するあなたの国にはこれ以上ない送り物かと思うのですが」
「それは素晴らしい。我が国を代表して感謝を申し上げましょう」
その事が公表されると、男の国の国民は歓声をもって出迎えた。
男の国の領海では、どのようなところでも鯨と触れ合うことができるようになった。
週末、子供達は鯨に触れて喜びの声を上げ、大人達はその光景に笑みを浮かべた。
あの客の国が送ったのは鯨だけではなかった。
それらの世話をする技術や、高価な鯨専用の薬も惜しみなく提供した。
国民は喜び、男の国は世界で最も鯨を守る国として、確固たる地位 を築いていった。

ある日、一人の学者が執務室を訪れ、自分の研究を差し出した。
それを一読した男の顔は瞬時に色を失い、学者は言葉を発することなくその場を後にした。
秘書が来客を告げた。
儀礼的な甲斐もなく、入ってきたあの客に男は詰め寄った。
「どういうことだ。このままでは増えすぎた鯨が我々の漁業資源を食い尽くすということではないか!いや、漁業資源だけではない。我が領海の生態系が崩れ、どのように悲惨な事態になるか、想像もつかないということだぞ!」
客の答えは冷静だった。
「そうでしょうね」
それを聞いた瞬間、男の身体は椅子の上に崩れた。
既に男の国は、いくつもの捕鯨国の方針を転換させ、鯨を人の手から守る国として、揺るぎない地位 を持ってしまっている。
いまさら、自国の方針を転回させることなどできるものではなかった。
客は静かに男を見下ろすと、部屋を出るために男に背を向けた。
その背中に男は恨みを込めた言葉をぶつけた。
「もう終わりだ。いったいどう責任をとるつもりだ」
客はゆっくりと振り向いた。
「なにもそう悲観することもないでしょう」
「どういうことだ」
わずかな希望にすがるような目をした男に、客は静かに言葉をかけた。
「鯨達に避妊法を教えるのですよ。なに、簡単なことですよ。あなたの言葉によれば、彼らは知的な生物なのですから」

<End>

2003/9/13 紅茶男